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和霊神社-高知 坂本家神社-

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龍馬が脱藩の決意をした和霊神社

高知市街の南にある水谷山の中腹に和霊神社はある。水谷山は別名才谷山とも呼ばれ、坂本家の才谷屋が管理していた。宝暦12年(1762)、坂本直益が伊予宇和島から勧請して、才谷屋の守護神としたのにはじまると祠の側面に刻記されている。文久2年(1862)3月23日、脱藩の意志をかためた龍馬は、この神社に訪れて武運長久を祈願したといわれている。

最初の鳥居から山の中腹まで、ずっと階段なので、体力がない方には一苦労である。

アクセスが非常に悪いためか、龍馬ファンもほとんど訪れない。観光用にノートは置かれているが、土日の誕生祭の日であっても、3人ぐらいしかコメントは記載されていなかったほどだ。

毎年、3月24日には、脱藩歳が行われているが、筆者は残念ながら一度も参加できていない。

和霊神社の狛犬和霊神社鳥居和霊神社2

アクセス

高知県高知市神田高神字水谷山
上町5丁目電停から徒歩40分
ここ近年は案内看板が増えたものの、場所もわかりにくい場所にあるため、タクシーをおすすめしたい。

筆者は坂本龍馬家の墓とついでに自転車で行く。GoogleMAPのなかった時代は、たどり着くのに苦労した。自転車であれば、GPS機能を駆使すれば問題なし。近くには日帰り温泉もあるので、疲れた方は温泉に浸かるのも一興である。


世の人は我を何とも言わばいえ我が成す事は我のみぞ知る

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世の人は我を何とも言わば言え
我が成す事は我のみぞ知る

解説

この言葉は寺田屋の庭にも掲載されているので、ご存知の方も多いはず。坂本龍馬が10代後半の時に詠った和歌といわれているが、正確にはいつ詠まれたのか、
はっきりしていない。

意味

意味は「世間の人は自分を馬鹿にするけれど、自分の良さは自分だけが知っている」といったような意味になります。

幼少の頃は、おねしょが治らない子や泣き虫として有名だった龍馬の心情がここに記されているのかもしれませんね。
龍馬の和歌は30数種残っておりますので徐々に紹介していく予定です。

坂本家では祖母の影響で歌会が定期的に開催されていたため和歌も堪能だった、といわれています。

原文について

この歌の原文は実は以下になります。

世の人は われをなにとも ゆはゞいへ
わがなすことは われのみぞしる

『詠草二 和歌』

「ゆはば」は土佐弁で、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で「言わば」と読みやすいように書き換えられて記載したため、
こちらで認識している人が多いでしょう。

出典は、『詠草二 和歌』は一枚の紙に6首の和歌が収められいるもので、いつ詠まれたのかははっきりしていません。
和歌の中に湊川、明石といった地名が出てくることから文久三年(1863)から元治元年(1864)にかけて神戸海軍塾の時期に書いたのではないかと推測されています。

『詠草二 和歌』

近藤長次郎邸跡

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龍馬の盟友 饅頭屋長次郎の生誕の地

近藤長次郎邸跡は龍馬の生まれたち記念館から徒歩数分で行ける場所にある。

近藤長次郎といわれるとピンとこないかもしれないが、「まんじゅう屋長次郎」といわれるとああ、と思い出す人もいるだろう。
近藤長次郎は、天保9(1838)年3月、水道町3丁目の饅頭屋に長男として誕生した。坂本龍馬とは生家も近いこともあり、少年時代から仲がよかったといわれている。

17歳で河田小龍の門下となり、町人ながら苗字帯刀が許された。文久3(1863)年には龍馬と共に勝海舟の門下生となり、神戸海軍塾に参加。
亀山社中では町人の才能を発揮し、トップセールスマンだった。長州のためにグラバーから小銃やユニオン号を買い付ける。

しかし、その際に長州の報酬金を独占し、イギリス留学を企画。これが仲間に発覚。亀山社中の利益独占禁止の盟約を破ったこととなり、切腹を命じられた。

アクセス

住所:高知市上町2丁目8-20
最寄り駅:電車上町2丁目 徒歩2分


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龍馬の生誕の地や生まれたち記念館から歩いていけるので、このあたりの距離は自転車や徒歩で距離感を楽しんでいただきたい。

河田小龍誕生地 黒雲洞(河田小龍塾)跡

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龍馬に影響を与えた河田小龍

はりまや橋観光バスターミナルに降り立つと目立った河田小龍の誕生地碑は立っている。レリーフには、、河田小龍本人が描いた自画像が使われている。

河田小龍は、坂本龍馬に影響を与えた人物で、幕末から明治にかけて活躍した絵師だが、ジョン万次郎の取り調べを担当しており、英語や異国事情について鎖国当時としては異例といってもいいだろう先進的な知識を得ていた。

万次郎から聞き取った内容は、『漂巽紀略』としてまとめ、坂本龍馬を始めとする多くの下級武士が読んだであろう。土佐人が自由民権運動を起こしたのもこういった知識が始まりなのかもしれない。

そんな小龍は誕生した地で、画塾「墨雲洞(ぼくうんどう)」を開き、下級武士や町民たちに絵や儒学を教え始めた。塾生の中にはのちの海援隊メンバーも多く参加している。長岡謙吉、近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などがが通っていた。

龍馬も小龍に学んでおり、船中八策などの土台を築いたことであろう。

「貧乏な下級武士で、志ある秀才を用いるならば、人なきを嘆くことはない」と言う小龍の言葉に、「きみは内に居て人を造り,僕は外にあって船を得べし」と返したことは有名な話である。

アクセス

高知県高知市南はりまや町2丁目1-34

河田小龍誕生地の碑は、はりまや橋観光バスターミナル西隅沿いにあるので、高知龍馬空港からバスで来られた方は、高知駅より少し手間がだが、はりまや橋観光バスターミナルで降りてしまうのも手だろう。

自転車や徒歩で十分いける距離である。


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坂本龍馬像 桂浜

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太平洋を眺める龍馬像

桂浜といえば、月の名所で古来より知られており、よさこい節にも「月の名所は桂浜」と歌にもなっている。
高知を代表する観光地ですが、その高台に坂本龍馬の銅像は太平洋を望むように設置される。

高さ13.5mと日本最大級の大きさの銅像です。その立ち姿は長崎で撮影された写真で、懐に手を入れて、 ブーツを履き、台により掛かるポーズをモデルに作られた。

近くにはアイスクリンの屋台がありますので、ぜひこちらも食べてみるのもいいだろう。

建設地 :桂浜龍頭岬
建設者 :高知県青年
銅像高さ:17尺5寸〈約5.3m〉
総高 :44尺5寸〈約13.4メートル〉【台座込】
工費 :約二万五千円(当時の金額)
除幕式 :昭和三年五月二七日
製作者:本山白雲

建設の背景

発起人は、入交好保。朝倉盛、信清浩男、土居清美らを誘い、日本一大きな銅像建設に向けて動きだしたのが始まり。
入交らは青年10万人から一人あたり20銭の寄付を集め、合計2万円となった。
それでも足りなかったため、入交は静岡に住んでいた元宮内大臣伯爵で、龍馬とも交友のあった田中光顕を訪れ、
龍馬像建設の趣旨を熱く語った所、昭和2年には伯爵の働き掛けで秩父宮殿下(昭和天皇の弟君)から200円ものお金を寄付される。

岩崎弥太郎が話を聞きつけ、寄付金を願い出たところ、あまりに高額であり、
青年たちの志が損なわれるため、龍馬像を建てる意味がなくなると断った。

結果的に募金より総工費2万5000円 (現在の70-80百万円)で建立された。自分の功績として残したくなかった入江は、
高知青年とだけ記載した。

アクセス

桂浜

住所:高知県高知市浦戸桂浜公園内
アクセス:JR高知駅より高知県交通バス桂浜行き30分「桂浜」下車、徒歩約5分 運賃は片道700円ぐらいだった記憶。
     帰りのバスは17時前後だったので、バスでいくと半日ぐらいはつぶれる可能性もある。
問い合わせ先:高知市観光振興課
電話: 088-823-9457

筆者アクセス方法
※筆者は毎回自転車。高知駅からでも11キロ程度なので、桂浜周辺を散歩するには、自転車いったほうがよいかもしれない。
 そこまでアップダウンは激しくないので、多少体力のある方であれば問題はないはず。お金に余裕があればタクシー貸し切りも
 手段である。

 ホテルのレンタルサイクルによっては「桂浜までの走行はご遠慮ください」などといった注意書きもあるので、気をつけていただきたい。
 また、駅前の電動自転車は17時までしか借りられないため、不向きかもしれない。道中は街灯も少ないため、日が落ちる前に
 戻ることをおすすめする。 

龍馬像を横から見るには

龍馬像を横からみた画像
毎年、龍馬の命日/誕生日の前後は、龍馬像の横に簡易的な展望台が設置される。また、ゴールデンウィークやシルバーウィークなど
大型連休の際も設置されることが多い。

ぜひ、行かれる前に観光案内ページを探してみるといいだろう。
龍馬に大接近のイベントはこちら

特別展望台料金:100円

展望台に登ると龍馬と同じ目線で、太平洋を一望できるので、ぜひお試しいただきたい。

永福寺【永福寺門前事件(井口村刃傷事件)】

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永福寺

坂本龍馬誕生の地から徒歩15分ほど歩くと、閑静な住宅街に龍馬が幼少のころに訪れたといわれている永福寺がある。

前には江ノ口川が流れており、鯉などが泳いでいる。
ここはかつて、土佐史としては重大な事件が起きている場所。

龍馬が登場する作品にも度々登場する、井口村刃傷事件事件の現場だ。
永福寺屋根

上士と下士の分け目の戦い

文久元年(1861)3月、上士と郷士(下士)が争う事件が起きた。
事のはじまりは永福寺門前を酒に酔った上士の山田広衛と益永繁斉が通りかかり、その際に郷士の中平忠次郎と宇賀喜久馬がすれ違いざまにお互いの肩が触れてしまったこと。
口論との末、上士の山田広衛が郷士の中平忠次郎を斬り捨ててしまった。

これを知った中平の兄の池田虎之進は急ぎ門前に駆けつけ、永福寺前の小川で返り血を洗っていた山田広衛、益永繁斉を仇討ちをした。
だが、郷士は土佐藩では”武士”とは認められていないため、”仇討ち”ではなく、上士への反乱として取り上げられてしまった。

この事件を発端に、山田広衛邸には上士。池田虎之進邸には郷士達が集まり一触即発の状況になった。
郷士の中には坂本龍馬の名も入っている。

このまま事態が悪化すると上士と郷士の全面衝突が避けられない自体となった。老功の者が「池田も仇を討った以上、今さら命を惜しむ理由もないだろう。だからいって、上士のもとへ引き渡すわけにもいかない。ここは潔く腹を切って、武士の名誉を立てるしかない」と主張して、池田虎之進と宇賀喜久馬が切腹することで事態の決着をついた。

だが、藩当局は上士側は謹慎処分、郷士側はお家断絶という差別のはっきりとした裁きを行い、これがきっかけで土佐勤王党が結成される。

この模様が詳しく書かれているのは、
坂本龍馬を主人公にした坂崎紫瀾の伝記小説「汗血千里駒」中でこの場面は描かれている。あくまで小説ではあるが、表舞台から消されて以降、龍馬の存在が世に出た作品であるので、注目はしたい。
汗血千里駒表紙
原作は国立国会図書館で無料で公開されている↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/880806/1

永福寺へのアクセス

住所:高知県高知市井口町105
最寄り駅: 路面電車「上町5丁目」下車後、徒歩約5分
所有時間:5

筆者オススメは自転車。坂本家のお墓に行く途中にあるので、立ち寄るといいだろう。

永福寺中

北辰一刀流 桶町千葉(小千葉)道場跡

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龍馬が通った北辰一刀流道 桶町千葉道場

桶町千葉道場は坂本龍馬が通った北辰一刀流道場。東京駅と有楽町駅との中間地点に桶町千葉道場跡がある。筆者の記憶の片隅では確か諸説あったはずだが、大河ドラマ「龍馬伝」のタイミングで確定したらしく、いつの間にか碑が立っていた。

ファンでなければ誰もが見逃しているだろう。龍馬伝が終わり、数年がたった現在は誰も足を止める者もおらず、ひっそりと佇んでいる。

桶町千葉道場とは…

北辰一刀流は、千葉周作が創始した道場。
幕末の江戸三大道場といわれ、北辰夢想流と一刀流を合わせた古流武道の流派である。

江戸三大道場とは神道無念流・斎藤弥九郎の「練兵館」、鏡新明智流・桃井春蔵の「士学館」。そして千葉周作の「玄武館」の3つ。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されていた。

千葉道場では、隣接する塾で儒学を学ぶものも少なくはなく、多数の幕末志士たちを排出した。坂本龍馬もその一人である。攘夷論者の巣だったといっても過言ではない。

千葉道場は当時、兄の周作が日本橋品川に開いた「玄武館」(お玉ヶ池)と弟の定吉が町京橋桶町に開いた「桶町」と区別されていた。
別名、大千葉、小千葉とも呼ばれている。龍馬は、土佐藩邸(中央区役所のあたり)から通いやすいという理由で、桶町千葉道場の門を叩いている。

決して『竜馬がゆく』に記載されている「定吉が老衰」だったためではない。

龍馬はここに1835年~1867年まで通い、塾頭を務めるまでなっている。師は千葉定吉、定吉長男の重太郎。また、定吉次女の千葉佐那との恋愛エピソードも数々残っている。

北辰一刀流の免許皆伝!?

千葉道場跡解説

龍馬は千葉道場で塾頭を務めるほどの、剣術の達人だったが、免許皆伝だったのかは、長年、証明するものが発見されず、論争が起こっていた。

しかし、2015年10月14日に関連書物が見つかり、免許皆伝の腕前が事実であったことが証明される。

北海道にある坂本家が高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した龍馬の関連史料の中から見つかった。同館によると、皆伝書の存在を示す文書は、7代当主の弥太郎が明治43年8月30日付の龍馬のおいの妻に書いた預かり書である。

坂本龍馬遺品展に出品する際に書き記したもので、秘伝巻物として「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」と記載されており、大正2年に釧路で起きた大火で坂本家が延焼した際に消失したと考えられている。

アクセス

住所:東京都中央区八重洲2-8-5
最寄り駅:
東京駅八重洲口から徒歩8分
有楽町駅 D9出口から徒歩8分

ぜひ、中央区役所から実際に歩いて欲しい。徒歩5分ぐらいでつくので、
アイツ近いとこ通ってんなー、と感じながら歩くことをおすすめしたい!

坂本龍馬の身長は? 本当に大きいのか?

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幕末大柄だった坂本龍馬の身長はいくつだったのでしょうか?
大変気になる方が多いようで、Googleでも月1,500回近くも調べられていますwww

坂本龍馬の身長については諸説あり、一番有力なのは、5尺8寸です。

今の尺図に直すと
1尺=30.3cm
1寸=3.03cm

つまり、175.74cmという身長になります。

正確な記録がないわけですが、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されていますが、
その大きさと現在人の標準寸法にあわせて比較してみると、170cmより少し大きいぐらいと学者によって
導かれました。

また、明治になり、龍馬の身長について語っている人物の意見もみてみましょう。

関龍二(海援隊所属) 5尺8寸(175cm)
田中光顕(陸援隊所属) 5尺7寸(173cm)
新太歌之助 (幕臣) 5尺9寸(179cm)

と語っています。

近しい数値であることがわかりますよね。

幕末当時の男性の平均身長は、155cm程度といわれているので、龍馬はかなりの大柄だったことがわかります。今で言うと190cmの感覚です。

ましてや龍馬とほぼ同一の身長だっといわれる乙女は、お仁王様といわれてもおかしくないですね。
もっとも横にも大きくなっていったみたいですがwww

また、京都国立博物館が所蔵している紋服から龍馬の身長を割り出し、
172cm、体重は80キロとなったそう。ウェストも約80cmと意外に太めなことがわかりますね。
というか、メタボやんwww。

これを元に作られたのが、霊山歴史館のシリコン素材で作られた龍馬ドールです。
福山雅治も龍馬伝の際にここを訪れ、筋肉量に驚いたというエピソードもあります。

結論

これらを総称すると…
坂本龍馬の身長は172cm~175cm程度だったと考えられます!


坂本龍馬の家紋は? 組あい角に桔梗紋!

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坂本龍馬の家紋は組あい角に桔梗紋(くみあわせかくにききょうもん)です。
この家紋が坂本家で確認できるようになったのは、坂本家6代目兼才谷屋3代目の坂本八郎兵衛直益の死後13年後に作られた、妻のさわのお墓からです。坂本家は直益のが郷士の株を買い、直益の長男・直海が才谷屋から分家して武家坂本家が生まれます。時期を考えると武家の坂本家ができたあたりからと考えるのが妥当でしょう。

坂本家家紋
それまでの直益までは丸に田紋を用いていました。
桔梗といえば、明智光秀が浮かびますが、坂本家でもそれにまつわるエピソードが残っています。

龍馬は明智光秀の血縁者?

坂本家の始祖といわれている太郎五郎が残した言い伝えがあります。坂本家では口伝だったようです。光秀の従兄弟である近江国坂本主の明智左馬之助光春が落城した際に、長宗我部元親を頼り、土佐にくだったといわれています。その際に生まれたのが、坂本太郎だったという伝説として伝えられました。これも龍馬の代でも話されていたようで、明治16年に坂崎紫瀾の「汗血千里駒」の小説でも語られています。

実際は坂本太郎は土佐藩才谷村に京都から移り住み。農業を営んでいたという説が濃厚です。

【坂本龍馬没後150年】特別展 陸奥守吉行展示 江戸東京博物館

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坂本龍馬の没後150年を祝う坂本龍馬展の東京展が昨日から開催されましたので、さっそく行って参りました。龍馬の手紙や遺品などを集めた特別展で、久しぶりに陸奥守吉行の展示です。場所は両国にある江戸東京博物館。
龍馬展の前には、長崎の風頭公園の銅像と同じ型から取った、銅像が展示されています。撮影スポットとして用意したのでしょう!

私は初日に行きましたが、午前中はかなり混んでいたようですが、17時以降にいったときはさすがに空いてました。土曜日の遅い時間がおすすめかもしれません。

坂本龍馬像

龍馬の手紙が生きたまま味わえる

今回の展示で珍しいのは龍馬の手紙の原本がそのまま飾られていること。高知県立坂本龍馬記念館では、龍馬の手紙が多数展示されていますがほとんどは複製品がほとんどです。現存する直筆の手紙約130通のうち、新たに見つかったものも含め、約60通ほど紹介されていますが、ほとんどが原本で展示されているのは非常に珍しいことだと思います。より龍馬のぬくもりがわかることでしょう。

また、今回の見所はなんといっても暗殺されたときに挿していた陸奥守吉行と龍馬の血しぶきついている掛け軸が展示されています。京都博物館所蔵のものですが、普段は見ることができません。私ですら、見たのでは龍馬伝のときに特別展示した以来です。約7年ぶり。今まで本物かどうか、怪しいとされていましたが今年になり、火事で反りがなくなった書物が見つかり、本物であることがわかりました。

また、個人的に面白かったのはかつての龍馬の刀、山城国西陳住埋忠明寿作も展示されています。一説では龍馬の変名である「才谷梅太郎」の梅はこの佩刀に梅があしらわれているので、ここから取ったのでは?ともいわれています。勝海舟の子ども名前から取った説が濃厚ですがwww

滅多にない本物は見られませんので、ぜひみなさんも足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

刀剣乱舞とのコラボも

蛇足的ではありますが、今回は刀剣乱舞とのコラボもあります。
期間は5月25日(木)~28日(日)の4日間。「刀剣乱舞DAY」と称されたイベント。刀剣男士「陸奥守吉行」の等身大パネルと描き下ろしイラストを展示され、期間限定チケットでは特製クリアファイル付きです。
ゲームでは強くもないので、そこまで人気のキャラクターではないので、大丈夫だとは思いますが、混雑を避けたい場合はこの四日間は外したほうがよいかもしれません。

没後150年 坂本龍馬会場について

「没後150年 坂本龍馬」
会場:東京都江戸東京博物館 1階特別展示室
開催期間:2017年(平成29年)4月29日(土・祝)~6月18日(日)
開館時間:午前9時30分から午後5時30分(土曜は午後7時30分まで)※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし5月1日・5月15日は開館)

アクセス

JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分、東口下車 徒歩7分
都営地下鉄大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A3・A4出口 徒歩1分

坂本龍馬の出身地はどこ? 土佐藩は現在の何県!?

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坂本龍馬の出身地は?

坂本龍馬の出身地は土佐藩です。現在の高知県になります。
現在の住所でいうと〒780-0901 高知県高知市上町1丁目7で生まれました。
誕生日の記念碑も建てられています。

出身地の高知県では坂本龍馬が生まれた11月15日では様々なお祭りが行われているので、
ぜひファンの方は訪れてみてもいいでしょう。

坂本龍馬の出身地関連リンク

坂本龍馬のゆかりの地高知(土佐)

坂本龍馬の誕生日は? 命日と同じ日?

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坂本龍馬の誕生日は? 命日と同じ日?

坂本龍馬の誕生日は、天保6年(1836年)11月15日とされており、命日は慶応3年(1867年)11月15日です。
11月15日は、誕生日でもあり、命日でもあるとされています。

現在でも毎年11月15日には、高知の誕生日の地では誕生祭、京都のお墓の前では供養の龍馬祭が行われています。
その際にろうそくに灯が灯されるのですが、実はどちらも同じ火が使われているのです! 
午前中に高知、夕方に京都に届きます。

同じ11月15日に生まれ、死を迎えるなんて、ちょっと運命を感じますよね。
さて、ここからはがっかりするお話です。

この説は正しくもあり、間違いでもあります。
また、実は龍馬の誕生日には諸説あるため、正しいとも言い切れません。

1,龍馬の誕生日を新暦に直すと…

11月15日というのはあくまで、旧暦の日付です。
龍馬が誕生日の天保6年11月15日は、1836年1月3日。
亡くった慶応3年11月15日は、1867年12月10日となります。

つまり、今の価値観に直してしまうと日付がずれてしまうのですね。

2、龍馬の誕生日は諸説ある!?

実は坂本龍馬の誕生日には諸説あります。
1、10月15日説
2、11月10日説
3、11月15日説

理由としては、現在のように戸籍を登録する制度がなく、
きちんとした記録が龍馬の出生記録が残っていません。

1,10月15日説

10月15日の記載があるのは、以下の書物です。

『汗血千里駒』(坂崎紫瀾:1883年(明治16年))
『阪本龍馬』(弘松宣枝:1896年(明治29年))
『勤王烈士伝』(萩原正太郎…1906年(明治39年))

2,11月10日説

『維新土佐勤王史』(瑞山会、坂崎紫瀾:大正元年)

3,11月15日説

『坂本龍馬』(千頭清臣:1914年(大正3年))
『千里駒後日譚』1899年(明治32年)11月4、5、7~10日

なぜ、11月15日となっているのでしょうか?

『汗血千里駒』、『維新土佐勤王史』で同じ著者、坂崎紫瀾が関わっています。
しかし、記載されている誕生日は同じではないため1と2の説は信憑性がありません。

『千里駒後日譚』(明治32年11月「土陽新聞」六回にわたり連載)でお龍は次のように語っています。
龍馬の生れた日ですか、天保六年の11月15日で、丁度斬られた月日(慶応3年11月15日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には10月とあります、
どちらが真だか分かりませぬ。

ここで挙げられている「書物」とは『汗血千里駒』か『阪本龍馬』を指すといわれています。
しかし先ほど述べたように、『汗血千里駒』、『維新土佐勤王史』の信憑性が欠けるのであれば、お龍の言う、十一月十五日がもっとも信憑性が高いのです。
また、「十月十五日」、「十一月十日」は文字が脱落した誤記、あるいは誤植の可能性もあるとはいえないでしょうか。
以上のことから私は11月15日であると考えられます。

なにより、同じ日生まれ、同じ日死んでいく・・・
それってステキなことじゃないですか?

坂本龍馬が愛した旅籠 寺田屋

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寺田屋は慶長2年(1597)創業の京都伏見の船宿で、幕末では薩摩藩士の定宿となっていた。坂本龍馬も利用している。
のちの奥さんになるおりょうも寺田屋で働かせていた。昔は幕末当初の建物といわれ、寺田屋事件のときの刀傷や銃弾の跡、おりょうが窮地を救った風呂など展示されているが、実は2008年に鳥羽伏見の戦いで消失したことがわかった。

偽物疑惑について

現在の寺田屋は明治38年(1905年)に再建したものだといわれている。とはいえ、当時の面影を知るにはよい場所である。

※筆者が最後に訪れたのは2008年の再建説の発表のあとだったが、当の寺田屋運営側は否定していた。
 現在は少し丸くなったようだが、今でも幕末当時のものかのような間際らしい展示の仕方をしているとのことなので、注意は必要。

 宿泊まで考えていた筆者に取っては非常にショックなニュースだった。

寺田屋の見学

拝観・開館時間 10:00~15:40
見学所要時間 約20分

料金

料金     通常 団体割引           
大人  400円 360円  300円
大学生 300円 250円  200円
高校生 300円 250円  100円
中学生 300円 250円  100円
小学生 200円 150円  100円
幼児入場不可 30人以上団体割引
予約方法 団体のみ要予約(電話)

寺田屋 アクセス

住所:〒612-8045 京都府京都市伏見区南浜町263

交通案内

京阪電車 中書島下車徒歩約5分市バス 京橋下車徒歩3分
近鉄京都線 桃山御陵前駅 徒歩10分

寺田屋への宿泊

寺田屋には今も宿泊ができる。
予約は必須ですので、ぜひ下記に問い合わせてみてください。

また、門限も厳しかった記憶が・・・・

問い合わせ先

【電話番号】:075-622-0243【FAX】:075-622-0242

寺田屋事件

寺田屋襲撃事件

日本を今一度せんたくいたし申候

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有名な坂本龍馬の名言の1つですね。こちらは龍馬が文久3年(1863)に姉の乙女あてに送った手紙の中で使われた表現です。龍馬が勝海舟の弟子入りして、神戸の海軍塾を創設に向けて実務を担当しはじめたころに送られてものになります。

申し候  読み方・意味

よく「申し候」「申候」の読み方がわからないという検索を見つけますが、「もうしそうろう」です。
意味はあまりなく、現在の「です」と思ってください。

日本を今一度せんたくいたし申候の意味

日本を洗濯したいです

本当のニュアンスは?

これ、名言のように扱われていますが、原文を見るとそうでもないのです!
原文を抽出しましょう。

原文

龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本タイホンをたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本ニツポンを今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ガンニて候。

意味・訳

龍馬は2,3の大名(福井藩の松平春嶽)と固い約束をして、同志を集めて、朝廷っもまずこの神の国を滅ぼさぬ大方針を立て、江戸の同志旗本大名そのほかと心をあわせて、いまいった悪い役人と一度戦って撃ち殺し、この日本をもう一度選択しようということを神様にお願いしたい気持ちです。

そうわかりますかね、みなさん「日本を今一度せんたくいたし申候」だけを取ってまるで、龍馬自身が日本を洗濯してやる!といったと思っておりますが、実は神にお願いしているだけです。しかもこのころはバリバリの攘夷思想であった龍馬は、異国打つべしというのがこの一文からでもわかります。名言でも何でもないわけです。

手紙の原文すべて

坂本龍馬 手紙 文久三年六月二十九日 坂本乙女あて

この文ハ極(ごく)大事の事斗(ばかり)ニて、
け(決)してべちや/\シャベクリ(饒舌)にハ、
ホヽヲホヽヲいややの、けして見せら
れる(ぬ)ぞへ
六月廿日あまりいくか(幾日)ゝけふのひハ忘れたり。一筆さしあげ申候。先日杉の方より御書拝見仕候。ありがたし。
私事も、此せつハよほどめ(芽)をいだし、一大藩ひとつのをゝきな大名によく/\心中を見込てたのみにせられ、
今何事かでき候得バ、二三百人斗ハ私し預候得バ、人数きまゝにつかひ申候よふ相成、金子などハ少し入よふ(用)なれバ、
十、廿両の事は誠に心やすくでき申候。

然ニ誠になげくべき事ハながと(長門)の国に軍ユクサ初り(ママ)、後月より六度の戦に日本甚ハナハダ利すくなく、
あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたゝかい申候。

是皆姦吏カンリの夷人イジンと内通ナイツウいたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、
龍馬二三家の大名とやくそく(約束)をかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本タイホンをたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、

右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本ニツポンを今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ガン[#「願」の左に「ネガイ」のルビ]ニて候。
此思付を大藩にもすこむ(頗)る同意して、使者シシヤを内ナイ※(二の字点、1-2-22)下サルヽ事両度。然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。

○先日下され候御文の内にぼふず(坊主)になり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ、ハイハイヱヘンをもしろき事コト兼而カネテ思ひ付おり申候。
今時ハ四方そふぞ(騒々)しく候得ども、其ぼふずになり太極※(二の字点、1-2-22)(はなはだごくごく)のくされ/\たルけさごろも(袈裟衣)をかたにかけ、
諸国あんぎや(行脚)にでかけ候得バ、西ハながさき(長崎)より東ハまつまへ(松前)よりヱゾ(蝦夷)までもなんでもなく、道中銀ハ一文も用意におよばず。

それをやろふと思へバ先つねのシンゴンしう(真言宗)のよむかんをんきよふ(観音経)イツカヲしう(一向宗)のよむあみだきよふ(阿弥陀経)、
これハちとふしがありてむか(づ)しけれど、どこの国ももんと(門徒)がはやり申候あいだ、ぜひよまねバいかんぞよ。おもしろや/\、をかしや/\。
夫よりつねにあま(尼)のよむきよふ(経)一部、それでしんごんの所へいけバしんごんのきよふ、
いつかふしうゑいけバいつかふしうのきよふをよみ(これハとまるやどの事ニて候。ほふだんのよふな事もしんらんしよふにんのありがたきおはなしなどする也。)いたし、まち(町)を。
ひる。おふらい(往来)。すれバきよふ(経)よみ/\ゆけバ、ぜに(銭)ハ十分とれるなり。これをぜひやれバ。しつかり。をもしろかろふと思ひ申候。なんのうきよ(浮世)ハ三文五厘よ。
ぶんと。へ(屁)のなる。ほど。やつて見よ。死だら野べのこつハ白石(チヽリや[#改行]チリ/\)

此事ハ必/\一人リでおもい立事のけして相アイならず候。一人リでいたりやこそ(龍ハはやしぬるやらしれんきにすぐにとりつく。)
それハ/\おそー(ママ)しいめを見るぞよ。これをやろふと思へヱバよく人の心を見さだめなくてハいかん。おまへもまだわか(若)すぎるかと思ふよ。
又けしてきりよふ(器量)のよき人をつれになりたりいたしたれバならぬ事なり。ごつ/\いたしたるがふぢよふばんバ(強情老婆)のつよ(強)ばんバでなけれバいかん。
たんほふ(短砲)。をバ。さんゑぶくろ(三衣袋)の。内にいれ、二人か三人かででかけ万マンマン一の時ハ、グワンとやいて、とふぞく(盗賊)の金玉までひきたくり申候。

○私しおけ(決)してながくあるものとおぼしめしハやくたい(益体)ニて候。然ニ人並ナミのよふに中めつたに死なふぞ/\。
私が死日シヌルヒハ天下大変にて生ておりてもやくにたゝず、おろん(ママ)ともたゝぬよふニならねバ、中こすいいやなやつで死シニワハせぬ。
然ニ土佐のいもほり(芋掘)ともなんともいわれぬ、いそふろ(居候)に生ウマレて、一人の力で天下うごかすべきハ、是又天よりする事なり。
かふ申てもけして/\つけあがりハせず、ますますすみかふて、どろの中のすゞめがい(蜆貝)のよふに、常につちをはなのさきゑつけ、すなをあたまへかぶりおり申候。御安心なされかし。
穴かしこや。
弟 直陰

大姉 足下
今日ハ後でうけたまハれバ六月廿九日のよし。天下第一おふあら(大荒)くれ先生を初めたてまつり、きくめ(菊目)石の御君ニもよろしく、むバ(乳母)にもすこしきくめいしの下女(とくますやへいてをりた[#改行]にしざいごのこんやのむすめ)にもよろしく、[#上部欄外に「じうもんじカ」]そして平井の収次郎ハ誠にむごい/\。いもふと(妹)おかを(加尾)がなげきいか斗か、ひとふで私のよふすなど咄してきかしたい。
まだに少しハきづかいもする。
かしこ。
しもまちのまめそふも、もをこわれハせんかへ
けんごなりや、なををかしい。

※写真はレプリカです。

坂本龍馬の妻 お龍(おりょう)の墓 信楽寺

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おりょうのお墓について

坂本龍馬の妻、お龍は楢崎龍(ならさきおりょう)は現在、神奈川県横須賀市にある信楽寺に安置されています。
おりょうは、龍馬の死後、土佐の龍馬の実家に預けられるも、家族とそりが合わず、各地を転々。その後、呉服商人西村松兵衛と再婚して西村ツルと名乗ります。明治39年(1906)、66歳で他界しました。

筆者が訪れて驚いたのは、墓石が想像以上に大きいこと。龍馬のお墓並に手厚く、埋葬されています。龍馬の死後の晩年はひどい生活だったと記憶していたので、個人的には意外でした。

おりょうの終焉の地、おりょう会館やペリー来航した久里浜海岸のペリー公園などから比較的近い位置にありますので、ぜひそちらのも足を運んでみてください。

おりょうのお墓

龍馬の妻 お龍(おりょう)の墓へのアクセス

住所:神奈川県横須賀市大津町3-29-1 信楽寺
アクセス:京急大津駅より徒歩5分
駐車場:なし

その他画像

おりょうの解説


義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり

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義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり

意味

義理に期待するな、行動を縛られてしまうといった意味になります。

真偽について

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で紹介されている有名な言葉です。筆者も好きな名言の一つではあります。
最初に坂本龍馬の言葉として紹介されたのは、千頭清臣著の『坂本龍馬』の「英将秘訣」です。ですが、実はこの「英将秘訣」は近年の研究で坂本龍馬が書いたものではなく、平田派の学者と考える方説が有力となっております。
※『龍馬のすべて』1985年 高知新聞社発行 平尾道雄著

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の執筆にあたりトラック1台分の資料を集めており、「坂本竜馬」として魅力を出すためにあえて龍馬の言葉として使ったのではないでしょうか。

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世に生を得るは事を成すにあり

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世に生を得るは事を成すにあり

『竜馬がゆく』で坂本龍馬の名言として紹介されている言葉です。めちゃくちゃかっこいいですよね。いじめられっ子として育った「竜馬」が、この言葉の重みがまったく違います。読んでいて印象的な名言でした。寺田屋の庭に飾られていますよね。

意味

人がこの世に生まれてくるのは何か偉業を成し遂げるためにある。といった意味です。

個人的には非常に好きな言葉です。この世に絶望している人や生きる意味を見失なっている人には、ぜひとも届けたい言葉ですね。

真偽について

残念ながらこの言葉は坂本龍馬の名言ではありません。 千頭清臣著の『坂本龍馬』の中で、龍馬が残したものとして紹介された「英将秘訣」に記載されています。残念ながらこちらは現在では、平田派の学者が書いたものという説が有力です。

原文

「世に生利を得るは事を成すにあり。人の跡を慕ひ、人の真似をする事勿れ。釈迦、孔子の類、唐土の世々の天子も皆しかる事をせり」
と「英将秘訣」には記載されています。

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何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり

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何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり

意味

何の目標もないまま、ぐずぐずして毎日過ごすのは実に大馬鹿ものです。

解説

坂本乙女、おやべあての 慶応元年(1965年)9月9日の手紙の中にある言葉です。薩長同盟に奔走していた頃の手紙になります。実はこの手紙でお龍を初めて紹介しており、その長さはなんと3メートル25センチものぼります。

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ふと四方を見渡して思うに世の中というものはかきがらばかりである

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ふと四方を見渡して思うに世の中というものはかきがら計である。
人間と云うものは世の中のかきがらの中にすんでおるものであるわい、
おかしおかし

名言の意味

四方を見渡すと、世の中は牡蠣殻ばかり。多くの人は世の中の牡蠣がらの中に住んでいるものですな。
(視野がせまい世界でいきていることを皮肉っている)

解説

坂本乙女あて 慶応3(1867)年4月初旬。
この時期は龍馬は上士である後藤象二郎と手を組んだ時期です。上士からもちろん、仲間の郷士からも批判が殺到した時期です。理解者である姉の乙女からも理解が得られておらず、この手紙の後に批判的な内容を受け取っているほどです。そういった嘆きの想いがこの手紙にあらわれていると思われます。

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坂本龍馬とは? 何をした人?

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坂本龍馬はどんな人? かんたんにいうと? 何をやった人なの

坂本龍馬は明治維新の立役者です。倒幕のきっかけのなった偉業を中心となって行っています。数ある革命の中で唯一、無血革命だったのが、明治維新。世界的に類似をみないこの革命の功績は彼なしではありませんでした。

幕府を倒せる力を持った藩の薩摩藩と長州藩の同盟をさせたり、戦争によって日本を弱体化させないために、幕府に権力を返させる大政奉還の案を土佐藩から出させたりと明治維新のための奔走をした人物です。

坂本龍馬の主な功績 凄さ

【1】日本初の商社 亀山社中の設立

亀山社中の跡
元治元年(1864年)までは勝海舟の元で海軍操練所の塾頭として学んでいましたが、池田屋の変に参加した生徒が参加していたため、解散されてしまいます。龍馬は脱藩したため、同時期に活躍した木戸孝允(桂小五郎)や西郷隆盛と違い、藩の後ろ盾もありません。

そんな中、龍馬は慶応元年(1865年)に薩摩藩や長崎の豪商、小曽根乾堂の援助を受け、亀山社中を設立します。船の回送や運輸業を行っており、日本初の商社ともいわれています。

名の由来は、亀山は地名、社中は、同じ目的を持つ人々で構成される仲間や組織を指すので、亀山にある組織といういたってシンプルな名前でした。のちに龍馬は土佐藩に脱藩を許され、土佐藩から援助を受ける形で海援隊と名を改めます。

【2】薩長同盟

薩長同盟は、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(現:京都市上京区)で締結されました。では、薩長同盟の何がすごいのでしょうか? まず当時幕府を倒せる勢力は薩摩藩と長州藩ぐらいしかありませんでした。しかし、この二つの藩は同じ倒幕を掲げながら、非常に仲が悪く、あの二つの藩が手を組めば、と誰しもが思っていても、実行に移されませんでした。一度、中岡慎太郎を仲介して、同盟を結ばせようと会談を試みますが、破断となってしまいます。そこで坂本龍馬は、海援隊を使って、薩摩藩から武器を仕入れ、長州藩に売る。長州藩からは米を仕入れて薩摩藩に売るという実利でお互いの因縁を緩和させて、無事薩長同盟が結ばれることとなりました。坂本家の本家は才谷屋といわれる商人の家計であり、龍馬は他の武士とは、感覚の違う視野を持っていたといわれています。龍馬がいなければ、この同盟は結ばれていなかったでしょう。

【3】日本初の新婚旅行

坂本龍馬の新婚旅行
慶応2年(1866年)、寺田屋事件で傷を負った坂本龍馬は、幕府から逃れるため、湯治療養も兼ねて、妻のおりょうとともに、霧島を訪れます。これが日本で最初の新婚旅行といわれてます。まだ江戸末期では夫婦で結婚後に旅行するという風習がなく、勝海舟から西洋では夫婦は結婚後、旅行にいくという風習があることを聞いており、西郷隆盛や小松帯刀のすすめにより、この地を訪れました。その様子はイラスト付きで姉の乙女に向けた手紙で残っています。龍馬の現存する手紙の中でもっとも長い手紙です。残念ながら2021年現在は霧島は火山の噴火が活発で危険のため、立ち入り禁止となっておりますが、湯治療養したといわれている温泉街は今でも入れます。

【4】船中八策


龍馬が起草させた公議政体論にもとづく国家構想が書かれている新政府綱領八策です。土佐藩の船、夕顔の中で記載されたため、船中八策と呼ばれています。

【5】大政奉還

幕末当時、薩摩、長州、土佐と三強と呼ばれていました。そんな中、同盟を結んだ薩摩藩と長州藩は武力による倒幕を考えはじめていたのを土佐藩は苦い顔で眺め、遅れてを取るまいと焦っている状況でした。

薩摩藩と長州藩は、関ヶ原の戦いで負けた豊臣側だったため、いわば徳川家には敵対する子孫であり、恩はありません。しかし、土佐藩の上層部の山内家は、徳川側であり、関ヶ原の戦いのちに土佐藩を与えられた恩がある立場のため、表立って武力倒幕には参加しにくい状況でした。

そのため、下士である坂本龍馬に助けを求めた、といわれています。龍馬はそこに眼をつけて、勝海舟や横井小楠からアイディアを受けていた大政奉還(幕府が朝廷に権力を返すこと)を土佐藩の後藤象二郎に提案します。

後藤象二郎から土佐藩の殿様であった山内容堂に伝えられ、最終的に徳川慶喜に提案されます。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還が行われました。

そのため、倒幕をする目的が薩長には失われてしまい、流血が少なくすんだといわれています。

坂本龍馬の本名

坂本龍馬の諱(いみな)は坂本直柔(なおなり)。武士は元服した際に諱がつけられますが、こちらが本名となります。龍馬は、「直陰(なおかげ)」でしたが、後に「直柔(なおなり)」に改名しています。諱は生前に口にすることをはばかる文化なので、通称の「龍馬」を名乗っているわけです。

坂本龍馬の家紋

坂本龍馬の家紋は桔梗紋で、組合角に囲まれているので、組あい角に桔梗紋といいます。
坂本龍馬の家紋は? 組あい角に桔梗紋!https://sakamotoryouma.com/kisotichiki/kamonn.html

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